秋葉神社御由緒
徳川家康公、永禄十三年(1570年)浜松城入城の際、北遠の霊山秋葉山より勧請。
浜松城近くの丘陵の上、奥三河の有力国人であり、家康公の長女亀姫を正室とする家臣奥平信昌の屋敷に建立。御朱印を付せられるとともに、敷知、浜名、引佐、磐田、豊田、山名、城東の七郡(現在の御前崎市から湖西市まで)の広さを檀下場として年々二季神札の配札を為し金穀募集を許可せらる。 慶応三年(1867年)正一位の神階を賜る。
古くから、毎年一月二十八日には神札や正月飾りなどを納める焼納祭、農作物の豊凶を占う管粥祭が執り行われ多くの崇敬者が参拝するなど、浜松やその周辺に住む人々の祈りの場となっています。
家康公が勧請し、徳川家、武田家、井伊家を結ぶ「信玄衆誓詞(天正壬午甲信諸士起請文)」奉納地、「井伊の赤備え」発祥の地として、以後歴代の浜松城主の崇敬も厚く、多くの灯籠が寄進され、現存しているものがあります。